ひらく、積ん読、かさねとく。

ただの読書録って言ったじゃない

【メモ】「離脱・発言・忠誠」(2005),A.O. ハーシュマン,矢野修一 訳 ②

第二章 離脱 
 離脱は、怠慢な経営に対し収益の低下という罰。従来の考えによる競争では、一時的で治すことが可能な過失からの回復を手助けする余地がない。「正常な」状態から逸脱した企業を競争はどのように戻せるのか。 

離脱の機能 
・ 購買量が価格に依存 → 品質低下における離脱(離脱関数) 
・ 売上低下と品質向上の反応関数(経営者が顧客の減少に気づいて欠陥の修復をするかどうか) 
・ 弾力的・非弾力的な需要の反映、機敏な顧客によるフィードバックと、緩慢な顧客による時間的・金銭的余裕によって競争(離脱)が回復につながる。 
 
第三章 発言 
 発言とは「利益の言明」。政治学者にとっては、言明に代わるものは黙認ないし無関心。経済学者にとっては、不満を抱く消費者は黙従する信者かあるいは完全な裏切り者。 選択肢は、言明(発言)するか、「逃亡」(離脱)するか。 

発言の機能 
・ 有効性はある一定までは発言量に応じて増大するが、 多すぎると妨害になる。
・ 失敗を警告する機能はあるが、経営陣が応答するまでの時間が必要。
・ 離脱オプションが使えない場合、家族・国家・教会といった社会組織が置かれた状況などで、不満を抱いたメンバーが反応することのできる唯一の方法 
・ 発言は離脱に代替するものではなく補完的に機能する。
・ 発言が効果的であればあるほど、重要は品質に関して非弾力的。
・ 離脱していない人( 発言の候補者、源泉)は、発言が効果的と思えば離脱しない。発言が機能しないときに離脱する。 
・ 元々備わる優越性が回復することを期待する、「元に戻す」可能性があると評価し、価値があるとする人々が発言をする。 

(「忠誠」は、完全に非合理的とはいえないまでも、やや合理性に欠けるやり方でとどまることで、「忠誠者」は政策や慣行を変えることを目指す。) 

利益集団が意思決定者に自分たちの実情を訴えようと、どの程度努力するかは、意思決定に影響を及ぼす努力が好結果を生み 、そこから獲得できるであろうと思われる利益に比例する」
エドワード・バンフィールド 
→発言することの費用( コスト)の問題



【メモ】「離脱・発言・忠誠」(2005),A.O. ハーシュマン,矢野修一 訳 ①

第一章 序論と学説的背景 
経済学における、とりかえしのつく過失(repairable lapses)の看過。需給の変化がない場合にも、極大化能力・エネルギーの喪失を原因とする業績低下があるが、企業の衰退や過失にも何らかの合理的理由があるものと解釈し、過失からの回復を考えず無関心でいる。 

・ 離脱オプション:顧客がある企業の製品の購入を止める、メンバーがある組織から離れる。

・ 発言オプション:企業の顧客や組織のメンバーが経営陣や権威筋、耳を傾ける人に対して、自らの不満を直接表明する。

 経済成長と技術進歩は、生存水準以上の余剰を生む。余剰によって人類は衰退を許容できている。マクロ経済的、永続的緊張経済という伝統モデルに対して、ミクロ経済スラック(slack ゆとり)という見方から経済的病弊を考える。 
不均衡状態の是正は、市場力(経済的メカニズム)か非市場力(政治的メカニズム)か、あるいは両者の共同作業なのか。非市場力が必ずしも市場力より非自動的ではないということ。 

【抜粋】「贈与論 他二篇」(2014)マルセル・モース,森山工訳 ③

p.393 結論
倫理に関する結論
“わたしたちの倫理にして見目も、(中略)贈与と義務と自由とが混ざり合った雰囲気のなかに、相変わらずとどまっている。
何もかも売り買いという観点だけで分類されるまでにはまだなっていない。
Ralph Emerson On Gifts and Presents「贈り物とプレゼントについて」⇒施しが、それを受け取るものを傷つける。
招待に対するお返し、「礼」に対して「礼」を返す、人間関係の基本をなすモチーフ。
同性の人どうしの競合関係であり、人間にとって「基底的な他者支配への志向」(アンペリアリスム・フォンシェ)
わたしたちの社会生活という一種独特なこの生にあっては、
「借りを返さないままでいる」(レステ・アン・レスト)というのは、許容されえないことなのだ。”

p.425 贈与によるヒエラルキー
“与えるということ、それはより大きくあることであり、より高くあることであり、(マギステル(magister)(主人))であることである。
これに対して、受け取っても何もお返しをしないということ、
もしくは、受け取っても受け取った以上のものを返さないということは、従属的な立場に身を置くことである。
それは、相手の子分、従僕になることであり、より小さくなることであり、より低い地位に身を落とすことなのである(ミニステル(minister)(従者))。”

p.432 
“最良の経済の方法が見つかるとすれば、それは個人個人がみずからの欲求を計算することのなかに見つかるものではない。”
p.433
“自分のためだけでなく、他人のためにも誠実に労働をおこなえば、
生涯にわたって誠実に俸給が支払われるという確信を人々がもつようにならないかぎり、
もはや人々をまともに労働に従事させることはできないということを、わたしたちは分かっている。
(中略)すなわち、自分が交換に出しているのはたんなる生産物、たんなる労働時間以上のものであるのだと。
自分は自分自身の何ものかを与えているのだと。自分の時間や自分の生を与えているのだと。
だからこの贈与、これに対してこの者は、控えめにでもよいから報いを得たいと思うのだ。
そして、この者に対してこの報いを拒みでもすれば、この者のやる気を失わせて怠惰に追いやり、その生産性も低下させることになるのである。”

【抜粋】「贈与論 他二篇」(2014)マルセル・モース,森山工訳 ②

ゲルマン世界「全体的給付の体系」
法的・政治的・経済的・宗教的体系
“クラン(特定の始祖から男系もしくは女系による単系の共通出自をたどると認知している人々の集団)どうし、
家族どうし、個人どうしがあらゆる種類の給付と反対給付を絶えず交わし続けることによって相互に結びついている。
それらの給付も反対給付も、無償の贈与やサービスのかたちで通常は行われる。”

全体的給付を構成する義務
・受け取った贈り物に対してお返しをする義務
・贈り物をおこなう義務
・贈り物を受け取る義務

“消費すること、お返しをすることに関わる一連の権利と義務がある。
この権利・義務は、提供することそして受け取ることに関わる権利・義務に関連している。
(中略)すべての物事は、受け渡しとお返しの対象になるということだ。”

p.242 小さなカワウソの話
“財の分配であるポトラッチは、「認知=識別=承認」(ルコネサンス)という根源的な行為
人々が首長なり息子なりを「認知=識別=承認」し、「感謝の念をいだく」(ルコネサン)ようになる”

p.298 第一の結論
“クランからクランへ、家族から家族へという「全体的給付」の段階は既にこえたにもかかわらず、
まだ純粋な意味での個人の契約には到達しておらず、お金が流通する市場や、本来的な意味での売買や、
そしてとりわけ、品位検定を施された貨幣で価格をあらわすという観念には到達していない諸社会がある。
贈与=交換というこの原理は、こうした段階の諸社会の原理であったに違いないと考えることができるのである。”

【抜粋】「贈与論 他二篇」(2014)マルセル・モース,森山工訳 ①

p.37 ギフト、ギフト
ギフト(gift)の意味、「贈り物」と「毒」
給付の典型は飲み物の贈与
“贈与はもっぱら飲み物をみんなで一緒に飲むとか、酒宴を奢るとか、
お返しの酒宴を開くとかといったかたちでなされるわけだけれども、こうしたときほど、
贈り物が善意にもとづくのか悪意にもとづくのかの見きわめがつかなくなる場合はほかにないということ、これである。”

p.210
“贈り物というのは、のちにお返しがなされるであろうという確信をともなって人から人へと経巡る(へめぐる)ものである。
そのとき、その確信の「保証」となっているのは贈られるその物に備わった力能であり、
また、贈られる物それ自体がこの「保証」なのであった。
けれども、考えうるおよそいかなる社会においても、ある期間を置いたのちに果たすべき義務を人に課すというのは、
贈与というものの本来的な性質である。
(中略)訪問、婚姻や連盟関係、和平締結、遊戯、模擬合戦、お互いへの「敬意を表明し」合うとき。
お返しまでに一定の期間を置くという概念は、人々が交換し合うありとあらゆる物に、
それも、その社会が豊かになるに応じて、ますます多くの、そしてますます貴重なも物が交換されるようになる、
そうしたありとあらゆる物に倫理的に包含されているのだ。”

【抜粋】「20歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学 集中講義」(2010),ティナ・シーリグ

第5章 P.114〜

リスクは基本的に五種類に分けられるようです。身体的リスク、社会的リスク、感情のリスク、金銭的リスク、知的リスクです。
(略)わたしはよく、自分のリスク・プロファイルを描いてみるように勧めます。ほんの少し考えるだけで、自分がどのタイプのリスクを取ろうとするかがわかります。

何かを決断するときには、情報が不完全な場合がほとんどです。つまり、ある選択をする場合、先がどうなるかは読めないなかで、選択をし、行動に移さなければならないのです。
他人から学ぶことで、失敗の確率を大幅に下げられるということです。自分ひとりで何もかも見極める必要はありません。
何かを選択するときに必要なのは、身の回りに、数千と言わずとも数百のお手本を探すことだと言えるでしょう。
リスクを取ってうまくいかなかったとしても、あなた自身が失敗者なのではない、ということも覚えておいてください。
失敗は学習のプロセスにつきものなのだということを肝に銘じておいてください。失敗していないとすれば、それは十分なリスクを取っていないからかもしれません。

第10章冒頭
種明かしをすると、これまでの章のタイトルはすべて、「あなた自身に許可を与える」としてもよかったのです。わたしが伝えたかったのは、常識を疑う許可、世の中を新鮮な目で見る許可、実験をする許可、失敗する許可、自分自身で進路を描く許可、そして自分自身の限界を試す許可を、あなた自身に与えてください、ということなのですから。じつはこれこそ、わたしが二〇歳のとき、あるいは三〇、四〇のときに知っていたかったことであり、五〇歳のいまも、たえず思い出さなければいけないことなのです。

【メモ】「思考の整理学」(1983),外山滋比古

どうしてこの本を読みたいと思ったのか、

自分でもよくわからないうちに、

図書館でリクエストがかけられていた。

読んでみてこれは…!と思って、

過去の自分の仕掛けに喜んでみたりもする。

“発想が扱うものは、周知、陳腐なものであってさしつかえない。そういうありふれた素材と素材とが思いもかけない結合、化合をおこして、新しい思考を生み出す。(中略)発想のおもしろさは、化合物のおもしろさである。元素をつくり出すことではない。”

“時間を強化して、忘れる。それが個人の頭の中に古典をつくりあげる方法である。そうして古典的になった興味、着想ならば、かんたんに消えたりするはずがない。

思考の整理とは、いかにうまく忘れるか、である。”